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日本建築写真家協会

Japan Architectural Photographers Society

設立25周年企画展
25th anniversary exhibition

コラム

Column

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新宿にほど近い町で生まれ育った。五歳になって間もない日、空を見上げると青空に五輪のマークを描く飛行機が飛んでいた。まだ空き地も多くあり工事現場も多かった、水道管が壊れたのであろう、空き地には湧水あふれる水たまりがあった。東京には東京なりの自然がありその中で楽しく時を過ごしていた。小学生のとき、学校の窓から外を見ると、そこには一本だけ高いビルが建っていた、そして一本また一本と増えて行く光景を眺めていた。大学時代いっぱしの写真作家を気取って撮影三昧の日々、そのほとんどの時間はどっぷり新宿の街にいた。街の見せてくれる様々な表情をカメラ片手に撮りまくっていた。だけれども、西口の高層ビル街に足を向ける頻度は少なかった。何となくよそよそしい、まだ街として成立していないような、そんな印象が足を遠のかせていた。今ならそのよそよそしい街をこそ喜んで撮っていただろうに。絶えず変化していくそんな都市が僕には宝箱に思える。そして今でも、相も変わらずに東京の街をカメラ両手に撮っているのである。

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2011年3月11日14時46分18秒。誰もが忘れることのできない大きな事件が起こった。東日本大震災。夜11時を過ぎて帰宅してテレビで始めてみた東北の映像に驚いた。阪神淡路大震災がおこったとき報道写真家でもない自分がその地に行こうとする気は起きなかった、むしろ興味本位でその地に赴くことを慎んだ。しかしこの時は違った、東京も揺れた、原発は壊れその被害は東京にも確実にやってきた、母方が東北の出身で子供の頃何度か訪れたことも関係していたのかもしれない、とにかく現地に行かなければという思いがとても強くわき出した。混乱している現地に勢いで行っても邪魔になるだけだろう、どうやってどこに行ったらよいのか考え模索していたとき千葉工大の石原健也さんから視察に同行しないかとのお声を頂き一緒に出発することになった。4月30日の夜東京を出発し南三陸町へ向かった。夜もおわり、白々と明けてくる澄んだ空気の中その光景は突然目に飛び込んできた。そして気仙沼、陸前高田。大船渡、釜石と海岸線を北上し、また南三陸町に戻る。内陸に戻り一泊して翌日は石巻、女川へと行った。

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視察の同行にあたりどのような機材で赴くか考えた。東京や北京といった都市の写真を撮るときいつも僕は4×5の大型カメラにモノクロームのフィルムを使って撮っていた。今回もそれと同じ視点に立ちたく大型カメラを持っていくことにした。デジタルの一眼レフをサブとしてそしてさらにチェキと三台のカメラを持っていった。未曾有の出来事の惨状を報道写真家のように記録するのではなく、都市を見る目で淡々と記録することに専念した。チェキはそこで出会った人々のスナップを撮り出会った人々に差し上げようと思い持っていったのだが、震災後まだ50日しかたっていないその地に人影はほとんどなくチェキの登場はなかった。ほんの一瞬でこんなにも変わってしまった街が今後どうなるのかずっと見続け記録していこうとそのとき決めた。

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翌六月、東京大学生産技術研究所の村松伸さんから岩手県の大槌町での調査に一緒に行きませんかと連絡があった、村松さんとは四半世紀一緒にアジアを行脚している仲、二つ返事で同行することを承諾した。都市を見つめる視点は変わらないものの、大型カメラでは一日で撮影できる枚数が限られてくる、質はそのまま、量は増やしたい、この時からカメラはデジタルを使おうと決める。フィルムの時代、撮影し終わったらラボで現像をしてもらえばとりあえず写真はできてきたのだがデジタル写真はそうはいかない、いちまいいちまいRAW現像をしてやっと写真になる。そしてさらにモニター上で100%から200%に拡大して隅々まで細かいゴミが映り込んでいないかチェックしなければならない。ふだん仕事の時はこの作業はスタッフにお願いしたりするのだが、仕事で撮った写真の作業に追われ、さらにここでの写真を頼むことはいささか心苦しく自分でやることにする。拡大した写真を上から徐々にチェックしていく。美しい、とても美しい景色なのだ。梅雨明け前の空、そして山々。上から三分の一ほどまでは、しかしその後景色は豹変する。僕が訪れたこの街はほんの数ヶ月まではとても美しい町だったんだろうなと思いながらこの作業を続ける、不覚にもこっそり涙を流しながら。

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東北沿岸の町すべてを見ることはできない。その後も南三陸町と大槌町は定期的に見続けようと幾度も訪れた。まだ生活していた痕跡に包まれたものが、散乱していたものが徐々に片付けられてくる。大事なプロセスではあるが、なぜか寂しくもあった。瓦礫はゆっくりではあるが消えていく。仮設で作った店舗もところどころに現れたり、宮城大学の竹内さんたちが作った番小屋ができたり、ほんの少しづつではあるが人の気配を多く感じられるようになってくる。二年三年と通っていくともちろん少しづつ様変わりする。瓦礫や崩れかかった建物はなくなり、夏草に覆われるとそこが住宅地だったことを忘れるような時もある、雪が降ればすべてを消し去ってくれる。たぶんそこに家があり、なかにお邪魔したときは広い居間や客間であったのだろうが、基礎だけになったそこに立つと、意外と小さく感じる。町もたくさんの建物があり、人が行き来していた時よりも同じ面積が小さく思えてくる。壊れかけた建物や瓦礫が綺麗になっていく、その町は最初に感じた時よりも小さく感じられてくる。それと同時に僕が撮影している対象の面積は大きくなっていくようだ。そしてその残った基礎も徐々に片付けられてくる。

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やがて盛り土が始まると仮設でできていた店などは消え、歩き回っていた道もいくつか無くなり、町の様相はさらに変わる。

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昨年の暮れ29.30日と二日間。久々に南三陸町を訪れた。盛り土の工事はさらに進み、道路がものすごく変化していた。行きたい場所にどうやっていったらよいかわからなくなることがあるくらいだ。これからこの工事がいつまでかかってどんな町になっていくのかは僕にはわからない。でもこの先もずっと記録し続けることだけは確かだ。写真の持っているとても大切な役割の一つに記録性がある。今まで僕はどこに向かって記録することを考えていただろうか。自分の中。自分と同時代を過ごしている他者。自分が死んでからちょっと先ぐらいまでの時代。たぶんそんなところだろう。今回の震災で訪れたこれらの風景を見て思ったのは、百年、何百年先に向けて記録をし続けようと。それこそが記録だと思った。この先、この町がどうなっていくのか見続けていきたい、どんな形になってもそこには人々の新しい記憶や営みがたくさん詰まってくる。それだけでいい、どんな素敵な町でも、どんなに退屈な町でも、そこにちりばめられている魅力をきっと撮り続けていく。画面の三分の一はもう用意されているのだから。

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(posted on 2016/3/10)

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