MENU

日本建築写真家協会

Japan Architectural Photographers Society

設立25周年企画展
25th anniversary exhibition

コラム

Column

街歩き(36)ルクソール (エジプト)

古代エジプト時代にはテーベと呼ばれていたルクソールは、ナイル河口のアレキサンドリアからは約千キロメートル上流のナイル中流域に位置する。
空路この地を訪れると母なるナイルが鉈で町をぶった切ったように南北に結界線を構築し、町を東岸、西岸と呼ばれている二分する形態を確認することが出来る。

 太陽が上がる東岸にはカルナック、ルクソールの両神殿などの生を象徴する建造物があり生者の町、太陽の沈む西岸の王家の谷、王妃の谷等には墳墓を中心とする死をイメージする建造物が多く、死者の町 (ネクロポリス) と呼ばれている。
ただ残念なことに我々が訪れた時期はエジプト政府の方針で理由は定かではないが、王家の谷一帯にはカメラ等の持ち込みが一切禁止されていて、多くの訪問者が不満を募らせていた。
王家の谷といえばツタンカーメンの墓だろう。多くの墳墓がそうであるように盗掘に遭っているが、ツタンカーメンの墳墓だけは奇跡的に盗掘を免れ、多くの副葬品が完全な状態で発見され、その中でもミイラの顔面を被っていた黄金のマスク発見は世界中に驚愕を与えた。
このマスクは確かはるばる日本にも運ばれ連日多くの見物客が訪れた事が思い出されるが、今はカイロの国立博物館に展示保存されている。
又、王家の谷から赤褐色の岩盤の大地を越えれば、エジプト初の女王として強大な権力を誇ったハトシェプスト女王の葬祭殿を訪れる事が出来る。
この遺跡では1997年に日本人10名を含む多くの観光客等62名が死亡するテロ事件があったが、詳細を述べる事はひかえたい。

 西岸の死者の町では強烈な太陽を遮る木陰等は一切無く、季節にもよるが我々が訪れた8月末の日中の外気温は常に45度を示しいささか閉口してしまったことを思い出す。

 今回のエジプト訪問は私が通っていた大学の学生達との同行旅であったが、さすがの学生達もこの地の暑さには閉口したようで、いつもは口数も多くて賑やかな彼らであるが、この時だけは此方が心配する程の無口に陥るとは思ってもいなかった。その後アスワンのアブシンベル、スーダン国境の変形ピラミッドへと南方への旅を続けたが、この辺りでは気温も50度近くあったようだ。その間の学生達の無口な事といったらその後も笑い話になる程の状況で、ある女子学生は「ダイエットするにはエジプト旅ですね」なんて今でも笑い話のように言っている。
このような学生達との同行旅では色々な国を旅したが、小さなトラブルも多く経験した。
ルクソールでも観光馬車の御者のあまい言葉について行き法外な料金を要求され困った事を思い出した。その手口は旅行案内書にも注意勧告されている初歩的な手口であるが、多くの学生が初海外のため致し方無い気もしないではないが。
私は仕事柄色々な国を訪れていて、サウジアラビア、ヨルダン、イエメン等で気温50度も幾度か経験していたせいか、この時も学生からは「なんでそんなに元気なのか」なんて言われ、当時は悦に浸っていたが、先月スイスを訪れ4千メートルの高地で撮影中に軽い高山病にかかり足元がふらつき、息切れがはげしくなり現状を実感せざるを得なくなったが、ルクソールの旅からは何年たっているのだろうか。

 話が少々逸れてしまったがルクソールに話を戻すとエジプト一番の観光地であるだけにコロナ禍が開けた今は多くの観光客が押しかけている事だろう。
我々は往路が航空便、復路は寝台特急でカイロとの往復をしたが、人の話を聞くと多くの人がカイロからルクソールまでのナイル川の船でのクルージングを薦める。船中で何泊かするらしいが、船のデッキレベルから眺めるナイルの両岸の風景が素晴らしく、時間の流れもナイル同様にゆったりと過ぎてリラックス出来る旅になるらしいが、せっかちな私には少々無理かもしれない。

人それぞれ色々な旅の楽しみ方があるようだ。

 さあそろそろ次の街歩きは何処にしようか。先にも述べたが先月訪れたスイスの小さな町でも良いような気がしてきた。

(posted on 2023/7/8)

戻る

PageTop