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日本建築写真家協会

Japan Architectural Photographers Society

コラム

Column

街歩き(35)サマルカンド (ウズベキスタン)

 中央アジア諸国の一国を形成するウズベキスタン。首都は東部地域に位置しカザフスタン国境に程近いタシケント。同国のナショナルキャリアが週2便のフライトで成田と8時間で結んでいる。
アジアと中東の交わる立地か様々な民族で構成される多民族国家で、旧ソ連邦国家の一翼を担っていたが1991年のソ連崩壊後にウズベキスタン共和国として独立を成しえた。

 今回の街歩きはタシケントから特急列車で4時間、西に350km離れたサマルカンドについて書いている。北方シルクロードの中では白眉の秀都、宝石のような秀逸のオアシスと称えられているイスラム建築、美術の宝庫の町だ。       
町の中心は世界で一番美しいイスラム様式の広場の一つに数えられるレギスタン広場。3方をマドラサ(神学校) 付随するモスク、ミナレットが囲み、前面広場と奏でるハーモニーが実に素晴らしい。
外壁を彩るサマルカンドブルーとよばれる青色タイルと紺碧の空とのコントラストも彩りを添えている。
青の都と呼ばれるのもうなずける。
以前、イランのイスファーンやトルコのイスタンプールでもブルーのタイルで装飾されたモスクを訪れたが、個人的にはサマルカンドの建築の方が保存状況も含めて劣っているとは思わない。

 町の多くのイスラム様式の建築はこの広場を中心に2km四方に集約されていて町歩きにはうってつけのスケールだ。
多くのモスク、マドラサ、御廟、ミナレット等最低でも数日間をかけて町歩きを楽しみたい。

 今回は町歩きもそうだが、シルクロード沿道でよく見聞きするキャラバンサライと呼ばれていた宿泊施設について少々書いてみたい。

 古代からシルクロードを旅する砂漠の民はラクダ、馬を移動手段として活用し、隊商と呼ばれるキャラバンを形成し砂の海原を移動し、流通経済を支え、交易、交流を図り東西文明の融合にも一役を担っていた。
そのキャラバンの旅人達が宿泊し、交易し、情報を交換する場としての総合施設をキャラバンサライと呼ばれていた。
国、地域により様式、形式は様々だが、基本は大きな中庭を設け、4方は大きな壁に囲まれ入り口は一箇所に限られ夜になれば頑丈な鉄扉で閉ざされ厳重な警備体制が敷かれる。
中庭ではラクダ、馬等の家畜の休息小屋、商人は交易、交流場所として利用し、管理人や使用人の住居等も1階部分に設けられた。
2階以上には中庭を囲むように設置された外廊下に面した居室が配置され、隊商の商人達の宿泊施設となっている。
商人達は一夜にして巨額の金銭のやり取りを行なうためかなり厳しい警備体制が敷かれ、それが人気のキャラバンサライの尺度の一つになっていたようだ。

 往時には多くのキャラバンサライが存在し、東は北京、西はローマ辺りにまでそこ痕跡が確認出来、シルクロードの支路にあたるインド、パキスタン、エジプト辺りにも痕跡が確認出来、現存しているキャラバンサライもあるらしい。

 我々がサマルカンドで滞在した宿泊施設もキャラバンサライを改装した快適なホテルで、町の中心に位置し何処に行くのも徒歩圏内で大いに気に入ってしまい、その後訪れたヒバの町でも同様のホテルを手配したことを思い出している。
 西域や中東も何度か訪れたが、何度訪れても欧米とは違った緊張感を抱くのは宗教観の違いなのかよく分らないが、違った扉を新たに開くような楽しみが湧いてくるのも楽しみの一つだ。

 この後はサマルカンドを後にして砂漠を横断し、同国中部のオアシス都市ブラハ、同じく西部のヒバにと向かったがラクダとまではいかないにしても、四駆を駆っての移動で少なからず往年のキャラバンを組んでの商隊達の気分を味わえた気分になれた。

 さあこの後は何処の街歩きを楽しもうか。エジプトのカイロ、ルクソールにでも行きますか。

(posted on 2023/5/16)

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