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日本建築写真家協会

Japan Architectural Photographers Society

コラム

Column

街歩き(33)パリ5区 (フランス)

 19世紀半ばまでのパリは生活環境、都市衛生は極めて劣悪だった。特に衛生面では目を被いたくなるような悲惨な状況で今日我々がよく口にする「花の都パリ」などは想像すら出来なく病巣の巣窟だった。
当時は急激な人口増加に街のインフラが追いつかず、人々の出す生ゴミ、排泄物が通りに投げ捨てられる有様でそれに伴う悪臭が立ちこめ、実状は雨水だけではなく排泄物、動物の糞、生ゴミ等が全てセーヌ河へと垂れ流しにされていたが、一般市民はそれを飲料水として使用していた為、伝染病も蔓延していたらしい。

 そこで当時の王政で都市計画に本腰を入れる事になり、ナポレオン三世の構想の下、時のセーヌ県知事のオスマンが大規模な都市改造に踏み出した。
国家的事業でもあり実にパリ市民の半数近い住人を強制的に立ち退かせ、道路の直線化、複線化、重要拠点は斜交路によって接合するなど通行インフラに重点をおき、街並みの統一感にも気を配り、有名なエトワール広場では同心円の外周道路を設けそこからは同一角度で12本の放射状の道路を建設するという画期的なものだった。その12本の道路の一つが現在我々が目にするシャンゼリゼであり、その先にはコンコルド広場、リヴォリ通りと今もなに一つも変わりなく当時の姿を見ることが出来る。
ノートルダム寺院が建っているシテ島もしかりで、寺院のまわりも貧民街として多くの人達がひしめき合って生活をしていたが強制的な立ち退きにより現在の姿にシテ島も生まれ変わった。

 今回紹介するアラブ研究所の前に架かっているシュリー橋もオスマンのパリ大改造の名残が見られる。オスマンは都市景観へのこだわりも強い事は先に述べたが、それを象徴するのがシュリー橋と言っても過言ではない。
この橋はサン・ルイ島を介して右岸と左岸をむすんでいるが、よく見るとセーヌ河に対して斜めに架橋されている。一見すると川に対して斜めに架橋されていると落ち着きが悪く、架橋費用も嵩張る。しかし斜めに架橋することにより、右岸のバスチューユ広場と左岸のパンテオンのドームが一本の道路でむすばれ、一直線上で眺める事が出来るようになっている。
又この辺り一帯は同時期にインフラの整備にも力を入れた地域で、今日パリ市中に張り巡らされている下水道システムもこの辺り一帯から始められたらしい。

 さて話が長くなりすぎたようなので早速アラブ研究所の話をしよう。
開館は1987年。この特徴的なデザインの設計者はジャン・ヌーベルでセーヌ河のシュリー橋から見ると緩やかなカーブを描き角張った街並みを和らげているが、一方反対側の広場からの眺めは直線的なデザインとなっている。
この広場に面した壁面にはガラスで加工された240枚のパネルが設置され、それぞれのパネルにはこの建築の見せ場でもあるカメラの絞り構造のようなメカニカルな採光用の自動調整する小窓が取り付けられている。
実際に広場に佇みパネルの開閉を眺めていると一律に開閉する訳でもなく、何を基準として開閉装置が作動しているのか興味が尽きない。
内部には図書館、シネマテーク、小さな博物館等が入っているが、入場して訪れる人は少ないが高層階にある小さなレストランで先に述べたシュリー橋やセーヌ河を見下ろしながらの食事をする事も可能だ。

 パリ5区というパリの中心、しかもセーヌ河岸にありながら観光客も少なく、落ち着き安心できる穴場スポットである事には間違いない。時間が許せば折角だからシュリー橋に佇みオスマンが力を注いだバスチューユからパンテオンのドームが一直線上に眺められるのを体験しても良いように思う。
 さあ次の街歩きはパリ異やフランスを抜けだし新しい国の街歩きを始めよう。

(posted on 2023/2/8)

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