NOSTALGIC JAPAN㊴ 真言宗醍醐派 三守皇山 大聖寺 その3
国指定重要文化財 不動明王
大聖寺は長治2年(1105)に、甲斐源氏の祖といわれる新羅三郎義光が開基したと伝えられている。寺には「義光山大聖寺殿」の義光の位牌や木造がまつられ、また義光の廟所もこの寺であるとされている。
左から武田信玄公・新羅三郎義光公・加賀美次郎遠光公
不動明王
大聖寺に安置されている不動明王像は内刳のあるヒノキ材の寄木造、彫眼、布ばり、錆び下地彩色、等身大で座高84.4cm。 両眼を見開き上歯牙で下唇を噛み、太目の弁髪を垂らし、怒りの表情も穏やかにまとめられている。
新羅三郎義光の曾孫にあたる加賀美次郎遠光が高倉天皇から拝領した仏像であると伝えられ、国の重要文化財となっている。
大聖寺縁起によると、今から八百余年前の昔、承安元年(1171)に京都御所の屋根の上に毎夜車輪のような形をした怪しい光が現れ、時の高倉天皇はそのために病になる。その時に大番として宮中守護にあたっていた遠光に悪魔退治の命が下り、遠光は宮中清涼殿におまつりしてあった不動明王に祈念し、甲斐源氏に伝わる「鳴弦の術」をもってこの悪魔を退け天皇をお守りしたという。その恩賞として清涼殿の不動明王をいただき、任が終わって甲斐の加賀美の荘(現:南アルプス市加賀美)へ帰る途中、曽祖父開基の大聖寺へ像をおさめたと伝えられている。 戦国時代に至り、甲斐の雄武田信玄公も信奉の志厚く、ここを祈願寺の一つとして帰依され、当時の寺領印書、朱印状、制札など数多くの文化財が残っている。
永禄四年の川中島の合戦のあとに武田信玄公が大聖寺へ贈与されたと言い伝えられている短刀と書状
「今般信州川中島合戦の刻、
薄氷を踏むがごとし 万難を逃れしは尊師
御祈祷の丹誠ぬきんでられしところ、すでに勝利全く終わり
不動明王加護のためと、ここに安堵の思いを申し述べ候
よって五条の袈裟、半装束の糸房(数珠)並に御剣を寄附する
尚帰陣の節、日ならずして謝をあらわし申すべく候 陣中不備」
永禄四年酉歳九月十日 大僧正信玄(花押) 大聖寺御坊中
その肆へ続く。
(posted on 2022/10/26)