街歩き (25) ルーヴル美術館(グランルーヴル)
街歩きを3年ぶりに再開する。自身も2020/2の海外出張からコロナ蔓延の余波で行けていない。そこでせめてコラムを書くことでこのモヤモヤ感からの解放にお付き合い願いたい。
先ずは30数年前の出会いがこのコラムのスタートになる。
ローマからパリに向う空港の出発ゲートで突然声を掛けられ振り向くと、声の主は旧知のN新聞社の文化部の記者だった。当時N新聞にフランスロマネスク教会のコラムを執筆していた時の担当者だ。
彼曰く、最近建設が始まったばかりのグランルーヴルの取材に行くので同行しないかと誘われ、パリではさしたる予定もなく渡りに船のような魅力的な話しに快諾したのは必然だった。
ここで少々グランルーヴルについての説明が必要のようだ。当時のルーヴル美術館は年間800万人ほどの観光客が訪れていたが、数カ所に分散されていた入り口では大量の入館者をさばききれず飽和状態に落ち入り、筆者も長い待ち時間に閉口した観光客の一人だった。
当時パリでは時の大統領ミッテランが提唱したパリ大改造計画(グランプロジェ) が推進されていて、その一環としてルーヴル美術館改造計画(グランルーヴル)も進められていた。
設計者はアメリカ人建築家のIMペイ。彼の案は今まで分散していた入館者を一箇所に集中させる手法として、美術館前庭のナポレオン広場に地下大空間のエントランスホールを設け、その入り口にあたる地上には鉄とガラスを素材にしたピラミッド型のメインエントランスを配するという奇抜な提案だった。しかしあまりにも奇抜な提案で有るが故、エッフェル塔建設当時同様、賛否両論の意見がマスコミを賑わせ社会問題にまで発展した。それも建設が進むにつれ反対派の論客達の意見も下火になり、今ではエッフェル塔同様、いやそれ以上にパリを代表する建築となっている。このプロジェクトは1993年まで続くことになる。
さて話を戻すことにしよう。記者に同行し最初現地におもむいた時はまだまだ基礎工事が始まったばかりで大きな水溜まりが出来ているに過ぎなかったが、この現場にその後10年間も通う羽目になるとは本人でさえ思いもしなかった。一泊三日の弾丸ツアー、一週間に二往復したのも今となれば良い思い出だ。この間には2件の定宿も出来、それぞれのホテルには3桁の日数滞在しているはずだ。
IMペイさんには2度ほど食事をご馳走になった事もあった。竣工時には私の写真の版権も買って頂き、今でもかなりの頻度で世界中からの不労所得を頂戴している。感謝の気持ちしか持ち合わせていない。
そんな数ある思いでの中で特に記したいのは竣工間近の或る日、グランルーヴル事務局から夜景撮影の問い合わせが有り、当方もダメモト覚悟であらゆる希望の申請をした。最初の訪問時からは約5年の月日も経ていたせいもあり事務局とも良好な関係は築けていた。
私が申請したダメモトな要求の一部を述べよう。
① 撮影時には広場に人を入れない。
② ガラスのピラミッドは勿論、外構照明も全て点灯。
③ これがダメモトの最たるものだが、ルーヴル宮の点灯。
その他様々な要求をお願いした。
ところがいざ当日になって驚愕したのは夕刻になると先ず広場に居た観光客を警察が出動して排除を始めている。その後広場に面した道路にはバリケードを築き完全にシャットアウトしてしまった。そこまでしてもらったのにも驚きはしたが、その後夕闇が迫る時刻になると、何とルーヴル宮の窓の照明がポツリポツリと灯き始め、最後に外構照明が一斉に点灯した。これを目にしたバリケードの外に追いやられていた多くのパリ市民、観光客からは一斉に拍手がわき上がり、私も人生初の鳥肌が立った記憶がよみがえる。
それが1988年の出来事で、その後二期工事として財務省が入っていたリシュリー翼の展示エリアへの改装、カルーゼルエリアの地下工事(逆さピラミッド、ショッピングモール等) と続き、5年の工事期間を経て1993年に全ての工事が終了し、今我々が目にするルーヴルへと変貌した。これに伴いコロナ禍前の2018年には年間1200万人もの来場者を迎え、名実共にパリ一番の観光地となっている。
この二期工事の期間にはグランルーヴルが縁で、その他のグランプロジェの撮影許可も下り、全ての作品の撮影をする事になった。
この間、時代の最先端の近未来的な現代建築と対峙でき、幾人かの著名建築家と交流出来たことはその後の写真家人生に於いても多大なる影響を得られた事は紛れもない事実である。
又、丹下健三先生のパリ事務所の秘書さんには撮影時のサポートに多大なご尽力を頂き、その最たるのがオペラ座、財務省の内部撮影の許可が取れた事を記さねばならない。
先生のお名前の偉大さ所以だろう。
その後も幾度となくこの地を訪れているが、ガラスのピラミッドがあるナポレオン広場は私の中では聖地と化している。必ずと言って良いほど足が自然と向いてしまう。2箇所の定宿からは必ず徒歩で訪れるようにしている。どちらからも40分程の行程だが、聖地を目指す巡礼者の心意気だ。
時間がない時は広場まで、余裕があればピラミッドより螺旋の階段を下り地下空間よりピラミッドの頂点を仰ぎ見る。広場には多くの人々が行き来し活気に満ちあふれているが、誰も居ない無機質だった撮影時の空間も悪くない。
ローマ空港の出会いから既に30数年の月日が流れている。この出会いがなければ幾度と繰り返したパリ行きもなく、多くの有名建築の撮影もしていない。人生とは摩訶不思議なものである。
今後はコロナ禍から解放された多くの旅人がルーヴル美術館を訪れるだろう。今までがそうであったように定番の絵画、彫刻を真っ先に目指し、追い立てられるが如く次の目的地に向う観光も否定はしないが、当時世界的論争を巻き起こしたガラスと鉄のピラミットと中世来のルーヴル宮との究極の対比、融合を楽しむのもルーヴル観光の一つである事には間違いない。
時間をかけすぎた!次の目的地に向おう。
(posted on 2022/5/24)