町並み探訪vol.23 (岐阜県土岐市・その3)
前回に続いて、岐阜県土岐市を行く。
JR土岐市駅のある中心部からは車で南方向へ約15分、先回の土岐市駄知(だち)町からは南西へ約10分移動すると、土岐市妻木(つまぎ)町。目の前には丘陵が迫ってきた。
今回の取材先は、妻木城址(つまぎじょうし)と士屋敷跡(さむらいやしきあと)。
丘陵部に立地し、北は笠原断層による断崖絶壁と、天然の要害に囲まれた典型的な山城である。14世紀土岐明智氏による築城とされていたが、発掘調査により戦国時代(15世紀中~後半)築城と考えられている。
山頂の「妻木城址」・山麓の「妻木城士屋敷跡」と、江戸時代前期の旗本クラスの城郭遺構や家臣団の屋敷跡などが合わせて残されている例はまれで、いずれも岐阜県史跡に指定されている。
慶長5年(1600)徳川方に味方したことにより、岩村城の田丸氏の攻撃に備え防備を固める為、堀切を造成し従来よりもコンパクトな城となった。
「くさび跡の大岩」 堀切造成時に除去しようとしたが諦めたとみられる
この山の地形上花崗岩が多く、堀切造成の際には支障が多かったと見られ、各所に苦労の後が見られる。中でも花崗岩の巨石群と節理が多く見られることは圧巻である。
節理とはマグマが冷えて花崗岩になるときに、収縮して等間隔に割れ目が出来る事である。一例として、福井県の東尋坊が柱状節理として有名である。
櫓や御殿を建築したとみられる礎石と考えられる丸石も多く残っているが、地盤の花崗岩とは異なり、平面性のある川原石を持込み、埋め込んだとみられ、土地造成も含め当時の土木技術の水準の高さが判るそうである。
妻木城として機能したのは江戸時代初頭迄で、その後は士屋敷が主に使われたため、早い時期に破城されたとみられる。
徳川の世になってからも妻木氏が治めてきたが、四代頼次が万治元年(1658)に39歳で急死したことで、妻木本家は断絶、領地のほとんどは幕府へ返納されたが、分家である上郷妻木家、下郷妻木家が治めて明治維新まで続いた。
「曲輪Ⅰ」 本丸とみられる
「曲輪Ⅲからの眺め」 正面に妻木領内、奥に土岐市内、左が多治見(写真外)
「妻木城士屋敷跡」 山麓の一帯に残されている
「妻木八幡神社参道」 関ヶ原の戦いの後、流鏑馬神事を始め、現在に続いている
「妻木八幡神社本殿」 創建は、元応元年(1319)美濃国守護土岐頼定の他諸説ある
話しはそれるが、明治建築界の三大巨匠の一人とされる妻木頼黄は、上総妻木家の子孫で、妻木城址のある美濃(岐阜県)の妻木家とは親戚関係にあたる。
本人は江戸屋敷で生まれ育ったため、美濃で住んだことは無いが郷愁を感じていたようで、様々な関わりがあった事が史実に残っている。
協力:妻木八幡神社 禰宜 黒田 正直様
出典:土岐市ホームページ
(posted on 2021/3/2)