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日本建築写真家協会

Japan Architectural Photographers Society

コラム

Column

NO PHOTO NO LIFE ⑨ ~作品の向かう先 ゲスト逢坂かのを さん~

10月某日のこと
山口県下関市の城下町長府へ秋晴れの空の下、この9月に小説の新刊を出版された「逢坂かのを」さんを訪ねた。

逢坂さんは様々な肩書を持っていて地元では「カバ隊長」などの愛称で親しまれ、ちょっとした有名人として多方面に精力的に活動している方であるが、僕にとってはどんな肩書の時であっても「故郷における兄さん」という付き合いをさせて頂いている方だ。
というのも人生の40年近くを首都圏人として生活してきた僕が約6年前にこの下関に帰郷できたのもこの人との縁無しではありえなかったからである。
まぁ、そんな話は場末の居酒屋ですればいい話として、今回はあえて「作家 逢坂かのを」として逢坂さんが城下町長府に構えるレトロ雑貨店「CAPTAIN KABA」にお邪魔して当コラムにおける対談の時間を過ごさせていただいた。

上略 (近況や世間話に約1時間)

西田
それにしても、まさか兄さんと「作家」と「写真家」という立場でクリエイティブなコンテンツに関して対談する日が来るとは想像もしていなかったね(笑)

逢坂
いや~、まったくだね。

西田
まずは改めてこの度は出版おめでとうございます。
実は僕は数年前に、この本の原版を読ませて頂いているのですよね。その時のタイトルは確か「東京物語」という仮タイトルがつけられていてA4の用紙に刷られた状態で兄さんに手渡していただいて一晩で読みきったのを覚えています。そんな事を思い出すと、出版社や流通過程で色々な方の手を経てこうして完成した本を実際に手に取ってみるととても作者でない僕でも感慨深いものがあります。本日は、いま僕が月刊コラムの連載でお世話になっている所属する日本建築写真家協会オフィシャルサイトで連載されているコラム掲載用の対談になりますので何卒よろしくお願いします。
本に関しては一人でも多くの皆さんに手に取って頂けたらと思います。
本日は「文や言葉」と「写真」と表現方法は違っていても作品を創るという上では似た立場の者として作品を生み出す事に纏わるお話が聞けたらと思っています。
ずばり、兄さんにとって「作品を生み出す」という行為には自身においてどんな意味や価値があるのでしょう?

逢坂
う~ん、まぁ難しい事は考えていないのだけれども、本の他にも絵も描いたりするのだけれど、やっぱり自己表現しかないよね。俺っていうのはこうなんだよ!って言ってもなかなか説明もできないし付き合った中で感じてもらうしかないし、そうじゃない人たちに対する自己表現かなって。そこに良い評価、悪い評価というのは気にしないであくまでも自己表現。
地位とか財産は遺せないけれど、絵や文であったら多少は自分の生きてきた事というのを遺せるのかなぁって。まぁ細やかな証。生きとったっていう自己表現。
それと生きている間の自己満足(笑)かな。
あと来年70歳になるけど、この何者でもない僕がこうして表現することによって、同世代の仲間たちの一つの力になれれば、それはいいのかなって。青春時代に持っていた熱い想いを同じように思い出してくれて、日々の余生に何かを与えてくれたらいいなと。
ま、かっこよく言えばそういう感じやね。本を書くのも絵を描くのも。

西田
いま、その自己表現という言葉が出てきましたけれど、その自己表現への欲求の源は何なのでしょう?

逢坂
それはよくわからないのだけれど、後世に名を遺すような作家や画家の作品を受けて、やっぱり刺激されるよね。あそこまでは行けないけれど、自分も何かやってみたい!って。
それでとにかく動いてみただけで、やってみて大した才能なかったな(笑)って気づくけど、でも挑戦することって僕はとても大事なことだと思う。とにかく人生挑戦者であり続けたいたいんだよね。

西田
では少し質問を変えて、
本日は作家という立場でお話を続けて頂きたいのですが、物書きの兄さんから見る写真って何でしょう?漠然とした質問で申し訳ありませんが一応写真に関する職能集団の公式サイトのコラムという事もあるので、ざっくばらんにお答えいただければと思います。

逢坂
あのね、、、写真ってある意味簡単に入れるというか。カメラさへ手にすれば簡単に入れる!
特に今はカメラも優れているし。だから素人でもある程度の写真がすぐに撮れる。
でも、簡単だけどこれほど難しいってものはないって思う。
いまスマホが普及して1憶総カメラマンの時代だと思うんだよね。
だけど本物のプロのカメラマンの凄さっていうのは、その写真をみて心が動かされる!
それと社会においても個人においても歴史の記録媒体だと思うから。カメラマンは絶対になくならないとも思うし必要だと思う。

西田
僕は、撮り手として活動しているのだけれど、撮り手の立場から見る側にまわった時、写真って抽象的じゃないですか!いや確かに写しているものは人だったり建物だったり、花だったり具体的なものを写してはいるのだけれど、その画から写真を通して作者が伝えようとしているメッセージ!となった際にはとても抽象的な世界だと思っていて、それに比べて物書きの作家さんは同じ事を意味するものであっても数ある類語の中から感性に合うものをセレクトしてそれぞれを紡いでいって作品を創りあげる事を思うと、メッセージの伝導性を比べた時に写真ってなんて伝えにくいものなんだろうって悩んだりするんですよね。

逢坂
いやいや、ぼくも幾つか作品を書いてきた中で色々な評価をいただくのだけれど、
全然そういった意図をしていなかったところを汲み取ってくれるわけ。
「はぁ~そういう見方があるんだ!」っていうような。
自分はそこまで考えて書いてないけれど、逆に勉強になったりしてね(笑)

西田
なるほどぉ~。
じゃあ、芸術ってそういうものでも良いのでしょうね。もしかしたら。

逢坂
うん。そういうもので良いのではないかって。
算数の1+1には確かに2という唯一の回答があるのだけれど、読書感想文に明確な正解ってないでしょ?それと全く同じことが自分が作者になっても起きるんだよね。
悲しげに表現したつもりが、より嬉しさを強調するために悲しげに書かれているんですね!っとか言われたり。
そうなると本にしても写真にしても発表してしまったら、そこから先は読む人、見る人の受け止め方なんじゃないかなって。
そこでもらった感想に対して、「いや、そうじゃなくてこうなんです!」って言っても意味がないんじゃないかなって。
芸術は自分の想いを表現するものであるけれど、見る人がどう捉えるかは受け手の自由であって、、、

西田
ってことは作品として一流であっても三流であっても、そういうことは起こりうるってことですよね。

逢坂
うん、起こりうると思う。

西田
作り手は最大限の想いと労と技術を作品に込めなければならないけれど、

逢坂
でも完成したら作り手はそこで完結。

西田
それってとても深いことですよね。
身を削って作り終えた作品を発表という機会を境に世間に委ねていくっていう勇気が最後に必要って事なんだから。

逢坂
そう、深いよね。
そして難しい。だって答えがないんだから。
それで色々な評価をいただいてまた書きたくなる。
表現者って難しい。正解も無ければ間違いもないわけだから。
でもだから面白いのだと思う。

下略 (話は流浪に続いた)

対談を終えて

約2時間半に及ぶ対談を記録したICレコーダを聴きながら原稿に起こす作業をスタジオで行っている。
この校正作業の後にもすぐに御贔屓にしていただいている住宅メーカー様の撮影業務が控えている。業務撮影で写し出される写真は商品として納品を行うものだが、そこには1カット1カット未熟なりにも人知れず写真家としてのアイデンティティを込めた作品として命を吹き込む思いで僕は撮っている。
今回の対談テーマであった「作品の向かう先」たとえそれが、自己表現を目的とした芸術写真であっても、商業写真であっても、誰かの目に触れ、そして何かしらの評価がなされるに違いない。その後に、その写真の1枚でも自分の手を離れた先で誰かの評価により新たな息吹が芽生えたならそれは撮り手として幸せな瞬間が自分の知らぬ場所で訪れたことなのだろうと思う。


城下町長府レトロ雑貨店「CAPTAIN KABA」にて逢坂氏と

作品の向かう先を考える逢坂氏


対談場所となった城下町のレトロ雑貨店


逢坂氏による新刊 文芸社より出版

(posted on 2020/10/20)

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