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日本建築写真家協会

Japan Architectural Photographers Society

コラム

Column

町並み探訪(岐阜県恵那市岩村町) 

岩村町は岐阜県東濃地方(岐阜県の東南部)にある。
元々は恵那郡岩村町だったが、平成16年(2004年)10月25日に、恵那郡4町1村と恵那市が合併して、「恵那市岩村町」となった。
 
岩村へは、明知鉄道にて行く事が出来る。
中央本線恵那駅-明智駅間 25.1kmの鉄道路線の途中駅である。
元は国鉄明知線(昭和9年6月24日開業)だったが、昭和60年(1985年)11月16日に第3セクター化され、現在に至っている。
国鉄明知線開業前に、岩村の大庄屋で岐阜県議会議長などを歴任した名士、浅見与一右衛門が私財を投げ打ち、岐阜県初の私鉄「岩村電気軌道」を明治39年(1906年)に開業、大井(現恵那駅)-岩村間を単線電化鉄道で結んでいた。しかし、国鉄線の開業後には廃止されている。


「明知鉄道 岩村駅舎と構内」駅施設の外観上は国鉄時代からほとんど変わっていない

岩村は美濃、信濃、三河の国境近くの要衝にあり、文治元年(1185年)源頼朝の家臣加藤景廉(かとうかげかど)が遠山荘の地頭となり、景廉の長男景朝が現在の岩村市街地東方の山間部に山城を築き、遠山氏を称したとされる。
戦国時代には織田、武田両氏に翻弄されたが、慶長6年(1601年)に岩村藩初代の松平家乗が入城、城山西麓の台地に藩主邸と武家地を、その南の岩村川対岸に町人地を建設(城下町)した。
現在では「日本三大山城」の一つとされ、岩村城の天守は標高717mと、山城では最も標高の高い地にある。
因みに、残りのニ城は、奈良県の高取城(比高390mが山城最大)、岡山県の備中松山城(天守が現存する唯一の山城)である。
また、(公財)日本城郭協会「日本百名城」に選定されている。(岐阜県では岩村城と岐阜城のみ)



「岩村城址」霧が多い当地特有の気象条件も生かされ、別名「霧ヶ城」とも呼ばれる


岩村駅から東へ向かうと程なく、昔ながらの町並みが目に入ってくる。前述の岩村城下町である。
駅に近い西側(新町・西町・朝日町地区)は、江戸末期頃から順次形成され、岩村電気軌道開通を機に、駅方面へ急速に発展していった。
更に東進、下町桝形(西町一丁目東側)を越えると本町・柳町地区。江戸時代から商人街、職人街として発展した。

敷地割りは南北に細長く、最も奥行きの長いところでは100m近くもある。間口は平均四間であるが、中にはその倍近い建物もある。
「岩村町本通り」と言われるこの地区の約14.6haは、平成10年(1998)4月17日、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
今回、伝建地区の内観作品は土佐屋、勝川家(かつかわけ)のみであるが、他にも木村邸等、多数の恵那市指定文化財などがある。また、儒学者 佐藤一斎、教育家 下田歌子といった偉人も多く輩出している町である。


「西町一丁目付近」2018年朝の連続テレビ小説「半分、青い。」のロケが行われた場所


「木村邸」岩村藩の旧家で問屋職のひとつ 藩主に一目置かれ、親交も深かったとされる


「土佐屋」明治時代の河合家は、銀行設立や電気軌道専務など、地元政財界で活躍した


「勝川家」岩村藩の有力な商家 江戸時代には三千俵の米を納めたとされる米蔵


「勝川家」三方が窓と珍しい女子部屋 大正後期に東京の大工が建てた(岩村出身)

(posted on 2019/7/2)

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