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日本建築写真家協会

Japan Architectural Photographers Society

コラム

Column

町並み探訪(可児市 兼山) 

兼山は、かねやまと読む。
元々は、可児郡兼山町だったが、平成17年(2005年)に可児市(かにし)と合併して「可児市兼山」となった。

兼山のすぐ北には木曽三川の一つ「木曽川」が流れていて、上流は長野県の木曽地域から岐阜県、下流は愛知県尾張地域を通過して三重県に注いでおり、川を使った水運は室町末期(1530年頃)には既に盛んだったとされる。
江戸時代、尾張藩は木曽山林の経営を行うとともに、尾張藩の御用材、伊勢神宮遷宮御用材もここを下った。
また、当時の岩村藩(現在の岐阜県恵那市岩村町付近)松平氏は江戸御廻米をここまで馬で運び、三重県桑名経由で江戸蔵屋敷まで船送りしたとされる。
つまり、江戸時代からこの地域は物流・商売の一大拠点だったと考えられる。
しかし、昭和14年(1939年)下流に完成したダムによって一帯が灌水状態となるとともに、陸運の整備によって船運は次第に衰退した。


「兼山湊跡」県史跡。石畳と、船問屋が建てたとされる石燈台が往時を偲ばせる

話は遡るが、天文6年(1537年)斎藤道三の命により町の南にそびえる山の頂上に城が築かれた。その後、織田信長が東濃侵攻への拠点として森可成を城主とした。その後、討死により、城主は数多く変わったが、慶長6年(1601年)に廃城となるまで森家が治めた。
その中には、本能寺の変で討死した森蘭丸も含まれる。この寺には森可成、長可、蘭丸、坊丸、力丸の墓があるとされ、可児市史跡に登録されている。


「可成寺」城下町の名残か、兼山地区には寺が多い

昔からの細い通りを少し歩くと、貴船神社である。大治2年(1127年)に、当時の領主であった土岐氏が山城国(京都)の貴船神社から勧請したと伝わっている。上方との深いつながりは、当地の権力が強かったものと推察出来る。現在は、この付近の郷社である。


「貴船神社」10月には祭りが開かれるが、普段は静かである

再び中心部へ向かうと、随分古い木造造りが見えてくる。
昨年開館したばかりの「可児市戦国山城ミュージアム」である。実は、明治18年(1885年)に小学校として建設、その後、農協、資料館などを経て、現在の施設となったもの。
近年では平成6年(1994年)と昨年に解体修理が行われている。
構造は懸け造りとなっていて、木曽川の河岸段丘に沿って建てられている。南面からは2階建て、北面からは3階建てに見える特徴的な建物である。
昨年の耐震補強で天井などが覆われたため、内部構造は全く見えなくなってしまった。


「可児市戦国山城ミュージアム」用途変更等により文化財には指定されていない

そして、古城山(兼山地内)の急峻な登山道を登ると美濃金山城跡である。古城山の北には兼山の町並みを見渡し、そのすぐ脇には木曽川が流れている。
以前は兼山という地名も金山と書いていたようだが、同じ岐阜県内に(飛騨)金山(かなやま)町があったことから、兼山(かねやま)に文字を変えたとされる。
本丸跡の標高は276m、周囲四方向とも眺めは良く、敵の動きを監視するには好都合だったと考えられる。
昨年まで約12年にかけて7回の発掘調査が行われ、天守や門に使用された瓦などや建物の礎石が発見された。また、石垣の一番上の石などを壊した「破城」の跡や、土木工事技術の高さを示す削られた岩盤なども発見され、保存状態も良好で貴重である事から、2013年10月には、それまでの県史跡から国史跡に指定変更された。


「大手桝形」ここの大手門と城門は、下流の愛知県犬山市瑞泉寺に移設されたとされる

「本丸手前の石垣」破城の際にこの付近に礎石や瓦を捨てたとみられる

「本丸跡」建物の礎石跡とされる位置に石が埋められている

「本丸からの眺め」西方に可児、美濃加茂市を一望。中央の反射は木曽川。その奥は愛知県。

(posted on 2019/3/3)

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