MENU

日本建築写真家協会

Japan Architectural Photographers Society

コラム

Column

我が師匠 村井修先生を偲んで。 

昨秋、私の師匠である写真家村井修先生が急逝された。一週間前までは故郷の愛知県半田市で大規模な展覧会を開催されていただけに驚きは隠せ得ない。

40数年前、写大の研究過程に在籍はしていたが、登校もせず何の目的も無く京都で好き勝手に撮影と云う口実のもと正しく自由を謳歌していた。ある日大学の掲示板を見た友人から「村井先生が探しているぞ」との連絡を受け急ぎ上京したら、なんと先生から「良かったら事務所に来ないか」とのお誘いを受け、自由を謳歌していた怠惰な生活との決別を余儀なくされた。

当時の先生は40代半ばのバリバリの現役で、毎週のように続く出張の多くに同行させて頂いた。欧州、中東、東南アジア、南米等々一ヶ月間に4度の海外出張も体験した。恵まれていたのは撮影の度にお目にかかる雲の上の存在の巨匠建築家達。その現場で交わされる彼らとの半ば禅問答の様な会話。右も左も分らないペイペイの私ですら「何々この場の空気、緊張感」みたいなピリピリ感を何度も体験した。その多くの巨匠建築家達も先人となり、今頃は先生共々何処かで禅問答を戦わせて楽しんでいる気がしてならない。

印象に残っている先生語録を紹介すると「空間を撮る時はそこに漂っている空気を撮れ」「写真は写すのではなく撮るのだ」「現場ではひたすら歩け」「建築写真でも決定的瞬間がある。それを見逃すな」「自身は建築写真家ではなく写真家だ」等々正に抽象的表現の連続であった。酒好家でもあった先生は出張先で良い気分になるとそのような話しを幾度となくしてくれた。事務所ではなかなか聞けない話が多かった。

6年ほどの弟子生活を送り、その後独立し私がグランプロジェの撮影でパリに長期滞在していた時期があり、所用でパリに来られた先生に下町のビストロで食事をご馳走になった。そこでグランプロジェの写真を見せたところ「この写真で世間に打って出ろ」と言われ、やっと私の写真を認めてくれたような気がし、この頃はこの師匠にしてこの弟子也なんて勝手な思いで舞い上がっていた時期でもあった。その今でも在るサンジェルマンのビストロは私にとっては聖地ともいえる場所で、今でもパリに行く度に訪れる巡礼地でもある。

後年、ライフワークとして幾多のロマネスク様式の教会建築の撮影を始めるが、以前先生が答えてくれた「空間を撮る時はそこに漂っている空気を撮れ」の教えがロマネスク教会の撮影への後押しになった事には間違いない。確かに多くの聖堂内では漂っている空気の存在を体感し、「空間を写すのではなくそこに漂っている空気を撮れば良いのだ」と言ってくれた先生独特の表現を無意識に実践していたようだ。

最初の個展をフジフォトサロンで開催したときの先生の感想が又素晴らしかった。一言も口を開かず熱心に写真を見て頂き帰り際に「チョットかたいな」とぽそり。「かたいな」には、考え方、構図、色調,階調,陰影等色々な解釈が出来るが最後まで本心は語ってもらえなかった。後は「自身で考えろ」って事なのか?正しくこれが我が師匠村井修である。

徒弟制度、師弟関係と言う言葉があるが、昨今はあまり聞かれなくなって久しい。我々の時代は正にこの言葉が日常会話でも頻繁に使われていたが、中でも徒弟制度自体は負の意味合いが強かった印象がある。我が師匠村井先生との徒弟制度のような師弟関係は、断言できるが負の思いなんて微塵も感じなかったし、私自身が正しく青春真っただ中を驀進していた至福の期間でもあった。人生の中で師と呼べ、慕える人物が存在する事は自身の誇りでもある。

その私も大学で多くの学生達と接する機会を持っているが、名称としての先生ではなくて、師として慕われる真の「先生」と呼ばれるようになりたいものだ。

こんな思いを口はばったく書いていると、今度はどの様な禅問答のような独特の言い回しでお叱りを受けるかもしれないが、それが聞けない今、我が師匠村井修先生が逝去された事を受け止めなければならない。

どうぞ安らかに。合掌
不肖の弟子 堀内広治

(posted on 2017/1/12)

戻る

PageTop