祖父の残した建築との対話
私が建築写真の世界に入った二十数年前から祖父である建築家山田守が設計し現存している建物を記録している。祖父は、私が生まれる3年前に亡くなっていたので会ったことはない。祖父との唯一の繋がりは、残された建物の前に立ち、感じ、写真に写し込むことだった。
長沢浄水場(1996)
山田守という建築家は、1894年に岐阜に生まれ、東京帝国大学建築学科卒業直前に同窓の石本喜久治、堀口捨巳ら有志5人と日本で初めての近代建築運動である「分離派建築会」を結成し、卒業後は逓信技師として多くの逓信省関係の建物(今でいう郵便局や電話局など)を設計した。1949年に山田守建築事務所を設立し代表作として東京逓信病院、長沢浄水場、京都タワー、日本武道館などがある。初期の頃は、インターナショナルスタイルを取り入れながら曲線を多用したモダンなデザインで評価を得たのだが、晩年の日本武道館などで和の要素を取り入れ作風が変化したように見えたことなどや京都タワーの景観問題などでかなり批判を受け、そのすぐに亡くなった為か評価を落としていた様だった。祖父に会ったことは無いが、家族から色々と話を聞いて育ってきたが、建築の世界に触れた27年前の頃は山田守の建築作品に関する本や写真があまり無い事や、建築家としての評価も微妙なことを感じた。写真作品のテーマを模索していた若かりし私は、現存しているうちに写真として記録していくべきと思い少しずつ撮影を始めた。
聖橋(1990)
撮影を始めた頃は、現存する建物の情報など殆ど無いうえにインターネットも無い頃なので古い作品集などから建物の名前を頼りに直接先方に電話して「そちらの建物は、古い建物ですか?」「最近、建て替えなどしてないですか?」など建築に興味ない方にわかるような質問をして情報を探した。実際に行ってみるとつい最近建て替えていたり、一足遅く解体中の建物なども有り悔やまれる事もあった。
島根県立出雲中央病院(2000)
京都タワー(2006)
東海大学湘南校舎(2007)
昨年の9月に山田守が設計した東海大学湘南キャンパスで日本建築学会大会が開かれ、記念行事として「建築家山田守展」が開催されたのだが、そこで今まで撮りためた写真で「form of an architrct」というタイトルでスライドショーを流した。10年ほど前に建築学会博物館で開かれた展覧会でもスライドショーを流したが、その時は物件ごとに説明的な写真を中心に構成したのだが、今回はその時に使われなかった写真や個人的に写真として見せたい物をランダムにセレクトし構成した。また、スライドショーにはキャプションなど説明的な物を入れたくなかった為、解説用の小冊子を1000部ほど作成し来場者に配布した。小冊子には17年ほど前から一緒に山田守建築を巡り、個人でも山田守の研究をしているワシントン大学建築学科教授ケン・タダシ・オオシマさんに山田守の建築と私の写真についてエッセイを書いてもらった。この展覧会は、建築学会大会内で開いた為、大会に来た多くの方々に来場していただき、実際に東海大学湘南キャンパスに現存する校舎も見た方々に改めて「山田守の建築、面白いね!」など感じてもらえた様だった。
山田守邸(2006)
自衛隊中央病院(2010)
日本武道館(2006)
また、昨年末にある新聞社に山田守と日本武道館のことで取材を受け、その中で建築エコノミストの森山高至氏が「武道館こそ新国立競技場問題のベストアンサー」という記事を書かれていた。山田守が日本武道館や京都タワーなどで晩年に評価を落とした事も踏まえながら、武道館が工期11ヶ月の突貫工事で作られた事や、建物の形状を八角形にして競技空間と観客を近づける事で見やすさを考慮した機能的な面や、富士山をイメージした大屋根も今では緑豊かな千鳥ヶ淵の景観に溶け込んでいるなど、デザインや工期の問題などに揺れる新国立競技場問題のヒントが武道館に詰まっていると書かれていた。
千住郵便局電話事務室(1999)
二十数年間、ゆっくりと記録しているなかでも、撮影初期の頃の山田守の評価と最近の評価の変化を感じている。時が経って独特なデザインがノスタルジックに感じるのか、その理由は色々だと思うが、長い期間撮影で関わる事でそれを感じることができたのはとても大切な経験となった。
建築家が亡くなり、建物が取り壊され、それでも存在していた事を伝えていく。それができるのが、写真の力だと改めて感じている。
東海大学湘南校舎(2006)
(posted on 2016/11/8)
Writer: 山田新治郎