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日本建築写真家協会

Japan Architectural Photographers Society

コラム

Column

記憶と記録 

5年が経過して

あの日、テレビの中では自分が撮影した建物が津波にのみこまれていた。
オーナーさんは無事だったのか。今では知るすべもない。
あのときもそうだった。1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災。
1ヶ月前、1994年12月に神戸で撮影した建物は、テレビの中で燃えていた。
想像を絶する映像だった。

あれから5年の月日が流れた。時間が経つと共に今ではあまり報道されなくなった被災地。この5年間、全国から集まった建設・土木関係者は、リアルタイムで被災地と接してきた。なんとか少しでも早く復興させたいと、今日も埃にまみれて頑張っている。
現在、平均すると月2回のペースで震災復興関連施設の撮影に岩手県、宮城県、福島県へ訪れている。被災地へ来る度に新たな道が造成されているので、現場は見えるけれども目的地へ到着できないというジレンマにおちいる。もちろん、ナビなど全く使いものにならない。まだまだそんな場所も沢山ある。愛車の4駆も酷使しており、気がついたら走行距離は15万Kmを突破していた。砂埃や跳石による傷だらけのボディー。ひとつひとつの傷は勲章のように輝いている。洗車をしていると「ああ、このボンネットの傷は気仙沼でやっちゃったやつだな」とか、バンパーの傷を見ては「女川町」の現場を思い出す。たまにテレビで放映される被災地は、どの番組も「復興の歩みを見つめて悲劇を語り伝える」と言う様な、なんとも寂しい内容が多い。実際には頑張っている人も沢山いるのに、何故かそういう人にはあまりスポットが当たらない。

南三陸町にて

定宿にしている民宿のおばちゃんや定食屋のオヤジさんは言う。「ここへ来て自分たちの話を聞いてくれるだけで嬉しい」と。外から新しい空気が入ってくると気持ちも明るくなるのだ。撮影から戻ると、いつも「お帰り~」と生ビールと一緒におろしたての笑顔で出迎えてくれるコクボ荘のお母さん。彼女も津波から逃げて助かった一人だ。

南三陸町コクボ荘
南三陸町の民宿「コクボ荘」のお母さん

はじめて宿泊した夜、津波の第1波が到達したときの話を聞いた。
お母さんは、経営していた民宿が津波で流される様子をデジカメで撮りながら逃げた。その写真を見ながら当時の様子を伺った。写真からは報道カメラマンが撮ったどの写真よりも臨場感が伝わってきた。僕は言った。「助かって良かったですね。命があって良かった。」
その瞬間、お母さんは険しい表情になった。そしてジッと僕の目を見つめた。
気のせいかも知れないが、あきらかに表情が変わった。睨まれた。僕にはそう見えた。
時間にして1秒。しかし、1分にも感じた。その目を逸らすことが出来なかった。
まるでヘビに睨まれたカエルの様に固まってしまった。
「何も知らないお前が何を言う。軽々しく命が助かって良かったなどと、知ったような事を口にするな」お母さんにそう言われているような気がした。薄っぺらな言葉を見透かされているようだった。

実際には、次の瞬間、ニコッと笑顔になり「そうだよね」と。元の空気に戻っていた。

それ以来、上辺だけの慰めの言葉を慎むようにしている。

初めて被災地を撮った日

僕が最初に被災地へ向かったのは、震災から半年後だった。
建設会社の監督さんから、被災した工場の現況写真を撮って欲しいという依頼だった。
現場のある石巻市は想像を絶するほどの壊滅状態。絶望とはこの事だと思った。言葉を失った。

もちろん、それが「仕事」なのだから依頼された“建物”は撮影した。しかし、友人、知人の家族が行方不明となっている中で、それ以外の“モノ”へ向けてカメラをかまえる気持ちにはなれなかった。大義名分が無い限り興味本位でレンズを向けてはいけないと思った。その日、使い物にならない地図を片手に、昔撮影した住宅が“建っていた”場所へ行ってみた。そこは瓦礫の山に覆われていた。すきまから雑草が生えていた。辛うじて基礎が少しだけ見えていた。

2013年の夏、岩手県一関市へ訪れたとき、陸前高田市へ足を伸ばしてみた。

岩手県陸前高田市 広田湾
岩手県陸前高田市 広田湾

このとき、はじめて“被災地”にレンズを向けた。
インフラ整備が進みだし、被災した建物が取り壊されて行く姿を見て
被災地の「今」を記録しておくべきだと考えた。
ただし、自分の中でルールを決めた。「写真家の自己満足のような写真を撮らない」と。
悲しい現実や悲惨な風景は沢山残っているが、それを過剰演出でオドロオドロしく撮影しないと誓った。被災した建物の向こう側にある、目に見えない、写真には写らない悲しみや苦しみを忘れてはいけない。現実をありのままに伝える写真を撮ろうと決めた。

陸前高田市
2013年 岩手県陸前高田市 このとき初めて“被災地”に向けてカメラをかまえた

GE3025
復興の象徴として奇跡の一本松と呼ばれている

この5年間に大船渡市、陸前高田市、気仙沼市、南三陸町、女川町、石巻市、松島町、塩釜市、多賀城市、名取市、相馬市、いわき市 …と、覚えているだけでこれだけの市町村へ震災復興関連施設の撮影に訪れている。地域によっては復興の速度もかなり開きがあるようだ。

GE9387
2014年 宮城県多賀城市の空撮
震災時、画面に写っている全ての範囲は津波にのみこまれた

  • 南三陸さんさん商店街
  • 南三陸さんさん商店街2
  • 南三陸町4
  • 南三陸町のファミマ

2015年 南三陸町 街角の風景  プレハブのコンビニで飲んだコーヒーは格別だ

女川町にて

僕が最も多く撮影に訪れている女川町の復興は、他の被災地と比べて素晴らしい速さで進んでいる。あの日以来、瓦礫の撤去と並行して女川港や道路の整備のほか、女川駅周辺に展開する中心市街地の土地のかさ上げ、高台の宅地造成などを急ピッチで進められている。水産加工工場の建設ラッシュも続いている。

  • 建築家・坂茂氏の設計による女川駅
    建築家・坂茂氏の設計による女川駅
    2015年3月に完成
  • GE0634
    女川駅展望台から望む「シーパルピア女川」
    駅から海に続くプロムナードに26の店舗が連なる。

新駅舎は旧駅舎から約200m内陸に、高さ9mかさ上げされた土地に建てられた。
外壁には宮城県産の杉板を使用している。駅の建物には、かつて駅に隣接していた町営の温浴施設「女川温泉 ゆぽっぽ」、ギャラリーなどが併設されている。
しかし、基幹産業の水産業は、漁獲量は戻ったけれど、加工する工場がまだまだ足りない。避難生活をしている人は地元に戻りたくても仕事がないという現実がある。今も仮設住宅で暮らしている方は大勢いて、お年寄りには孤独を感じて引きこもりになっているケースも多いと聞く。

  • GE0627
    きぼうのかね商店街の一角
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    まだ震災の爪痕がのこっている場所もある
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  • GE0630

2016年3月 女川町地域医療センター(旧女川町立病院)から女川港を望む 

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    いつもお世話になっている
    トレーラーハウス宿泊村「EL FARO」
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    女川町地域医療センター駐車場には
    慰霊の花が供えられている

震災前の女川町は全国でも有数のサンマの水揚げ基地として知られ、銀ザケをはじめ、カキやホタテ、ホヤなどの養殖も盛んであった。リアス式の海岸がつくる深くて静かな港と、山に囲まれた土地だった。昔、南三陸町で住宅の撮影をした後に、海沿いの道を走りながら眺めた美しい夕焼けが忘れられない。

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2014年の夏、さんまの昆布巻き“リアスの詩”で有名な『マルキチ阿部商店』の製造工場の撮影に訪れたとき、空き時間に専務の阿部さんから震災当時の様子と再開させるまでの道のりを伺った。

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2014年の夏に完成した新製造工場

『 3月11日、あのとき私は仙台の夢メッセで開催されていたグルメイベントに出展していました。イベント初日に地震が発生し、交通機関は全て麻痺、女川まで は50km以上もあるため、さすがに歩いて帰る事ができず、地震発生の翌日に親戚の車を借りて、ようやく女川町にたどり着くことができました。そこで目に したのは、生まれ育った女川の変わり果てた姿でした。20mを超える津波に町ごと襲われた女川町は全てが跡形も無く破壊されていました。私たちの工場も、女川町の海岸から数十mの位置にあったので、津波の直撃を受けて流されてしまいました。工場や設備だけでなく、女川町内にあった自宅も失いました。そんな中で、従業員に一人の死者も出なかったことが私たちの唯一の幸運だったのかもしれません。
女川町に戻ってからは、避難所での生活が始まりました。
この頃はまだ会社を復興させるなど、全く考えられませんでした。
しかし、そんなある日のこと、瓦礫の撤去作業を進めていたところ「農林水産大臣賞受賞」の際、記念に製作した木製の看板が瓦礫の下から出てきたのです。その時、神様に「この看板をもう一度掲げて頑張れよ!」と言われた様な気がしました。これは奇跡としか言いようがありません。

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瓦礫の中からみつかった木製の看板は玄関に飾ってある

また震災前の旬の時期に買い付けてあった「さんま」が、高台にある倉庫に保管されていて無事だったのです。「昆布」も津波被害の無い唐桑地区にある母の実家の蔵に保管されていて無事でした。
「昆布巻きの復活を待っているよ!」と言ってくれたお客様に、再び商品をお届けすることが出来る。そう考えると、全身に「希望」がみなぎりました!
まだまだ大変なことばかりですが、いくつもの奇跡が与えてくれた希望を胸に、商売を続けていきたいです!』

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製造工場の裏山から望む女川港。震災当時はカメラをかまえているこの場所まで津波が到達した

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2015年6月 女川町地方卸売市場東荷捌場を中心に女川港を空撮した

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女川港越しに女川町地方卸売市場東荷捌場を望む

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隣に現在建設中の管理棟が完成すれば更に活気がつく

僕は建築写真撮影を生業にしていなければ、これほど頻繁に東日本大震災の被災地へ足を運ぶことは無かっただろう。震災直後から仲間がボランティアで被災地へ向かったときも、僕は東京にいた。被災地へ行って瓦礫を撤去している自分が、炊き出しをしている自分が全く想像出来なかった。人にはそれぞれに与えられた役割があるのだと思う。自分が役に立つときが必ず来る。そう思っていた。それは、今かもしれないし、その先かもしれない。

3月11日が来ると、今年も「被災地の今」と称して悲しい映像に寂しい音楽をかぶせて流れていた。僕が普段目にしている被災地とは違う映像に違和感がある。今は震災当時の空気では無い。街角には笑顔がある。「あの日を忘れない」事はとても大切だけれど、そこに立ち止まった後ろ向きの情報や報道が多い様な気がする。

僕が知り合った人は、皆、前を向いて明るく元気に生活している。もちろん、やるせない気持ち、癒えぬ心の傷は秘めている。そんなの当たり前だ。

定食屋のオヤジさんは笑顔で言う。「俺たちは歯を食いしばって頑張っている!その頑張っている姿を伝えてよ」と。「ついでに東京へ帰ったらみんなに言ってほしい、南三陸町へ美味しい海鮮丼を食べに来てよ!」と。オヤジさんだけではなく、そう願っている人は沢山いる。

僕は震災の記憶を風化させないために、これからも復興して行く町並みを記録して行きたい。

(posted on 2016/3/17)

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