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日本建築写真家協会

Japan Architectural Photographers Society

コラム

Column

町並み探訪vol.9 (岐阜県可児市・その1) 

今回からは岐阜県可児市(かにし)を探訪する。
先月までの美濃加茂市とは、木曽川を隔てた南側に位置する。
可児市の更に南側は、日本一暑い街として有名となった多治見市へと続いている。
岐阜県中南部に位置し、名古屋市や県庁所在地の岐阜市から30km圏内である事から、昭和40年代後半からベッドタウンとして人口が急増し、昭和57年4月1日に市制を施行、可児郡可児町から可児市になった。

市の代表駅であるJR太多線(たいたせん)可児駅は市制施行に合わせて駅名改称されたもので、それまでは広見駅、隣接する名鉄新可児駅は新広見駅と称していた。因みに、駅名になった「広見」とは市内の字名であるが、実際の所在地は「下恵土」で、広見は数百メートル東からの字名となる。
可児駅舎は、昭和3年(1928)10月 現在地へ移転時に建築されたもので、国鉄地方駅の代表的な造りであり、今では貴重な歴史的建築物とも言える。平成30年(2018)3月、その駅舎を囲むように東西自由通路が完成した。


「可児駅と新可児駅」 自由通路のほか、駅前広場も2019年春に竣工した

可児駅から約6kmほど東に行くと、久々利(くくり)地区である。
街中へ入ると車通りも少なく閑静な住宅地が続くが、少し歩くと畑が混在する。
日本書紀よると、この地は「泳」(くくり)とされ、景行天皇(12代天皇)が行幸され、この地の入媛(いりひめ)を妃にされたと伝えられている。


「泳宮(くくりのみや)」 古代恋愛の舞台として保存されている 可児市史跡


「泳宮公園のフウの木」 享保年間(1716-36)大陸から移植と推測 可児市指定天然記念物

時代が流れ、慶長6年(1601)、千村(ちむら)家は、家康により久々利に屋敷を拝領、居住したことで武家屋敷のある城下町として商家も発展したとされる。その後、幕府代官と尾張藩家臣という二つの立場を有したことから、当地の他、江戸、名古屋にも屋敷を持っていた。所領は信濃国(長野県)、遠江国(静岡県)、岐阜県東濃地域(中津川・恵那・瑞浪・土岐・可児・加茂)のそれぞれに散在していた。
千村家は、明治と共に木曽姓に復し、今に続いている。
また、勤王の志厚く、倒幕運動に参加し、慶応3年(1867)戦死した西山謙之助の生家もこの地にあった。(現在は塀が残されている・可児市史跡)

江戸の寛文8年(1668)久々利八幡神社大祭が創始したとされる。
この祭礼では、2台の山車(やま)が巡行し、からくり人形が行われる。
久々利八幡神社から、御旅所である八剣神社へ2基の神輿が渡御し、この神輿に2台の山車が合流する。このときは、多くの人が訪れ大変な賑わいとなる。従来は4月15日に開催されていたが、近年では4月15日に近い日曜日に行われている。
轇轕蔵(こうかつくら)は、山車を保管するため、平成7年(1995)に建てられた。

平成3年~13年(1991~2001)地域住民がまちづくりルール(久々利区域街づくり協定)を定めた。その後、平成24年(2012)には、可児市初の景観形成重点地域指定により、地域団体(元久々利まちづくり委員会)が発足・活動するなどし、高い住民意識により歴史的特性を保全・活かしてきた。
また、委員会の内部組織として「久々利城跡城守隊」を発足、草木に埋もれ、足を踏み入れる事も難しい状態だった久々利城跡の整備を行っている。その活動に対し、令和元年度都市景観大賞「景観まちづくり活動・教育部門」で大賞の「国土交通大臣賞」を受賞した。(土地所有者の株式会社パロマ、行政の可児市との連名応募)


「元久々利の街並」 地元住民の協力で景観を保全している


「千村家屋敷」 現在も江戸時代からの流れを受け継いでいる


「東禅寺」 千村家の菩提寺で、歴代当主と一族の墓石が並んでいる


「轇轕蔵(こうかつくら)」 車や馬が動き回る様子やその音のことを言う

(posted on 2020/1/2)

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