日本建築写真家協会

Japan Architectural Photographers Society

コラム
column

街歩き (12) 硫黄島(東京都) 堀内広治

月の中旬に毎回コラム原稿を書いている。
毎月一編のコラムでも書き手となれば無い知恵を絞り、どの街にするか、この写真で良いのかと結構負担になっている。
今月は月半ばの終戦記念日に多くの特集番組が放送され、その中の何本かを見てみた。そこで今回のコラムは太平洋戦争の激戦地の一つである硫黄島について書く事にした。最初に断っておくが毎月コラムには取り上げた街のスナップ写真を掲載しているが今回に限り書き手の思いで硫黄島の写真掲載を遠慮させて頂く。

硫黄島は東京の南、1200キロの絶海にある南北8キロ、東西4キロの火山島である。行政区は東京都小笠原村。島への公共交通機関は無く唯一の渡島手段は自衛隊の輸送機に頼るしかない。一般人の上陸も制限され遺骨収集の人達のみ入島が許される。正確に言えば気象庁の職員、自衛隊員、建設関係者のみが島での生活者である。

私たちも唯一の渡島手段の自衛隊輸送機の搭乗許可を得て、入間基地で映画では見たことのある認識票を首から提げられ、硫黄島まで運んでくれるC-130輸送機の機上となった。以前、海外で空軍のヘリコプターには何度か搭乗したがさすがに軍用の輸送機には初めての体験だ。貨物室と居室が一体の内部は外観からは想像していたよりかなり広い。約3時間半のフライトだったが、隣人の声も聞こえない轟音と振動には閉口した。自衛隊の隊員の中にはこの同型の輸送機で中東や、アフリカまで行く任務も有るらしい。

やがて硫黄島の象徴である鉢伏山を左手にかすめ飛行場に着陸した。この飛行場の滑走路は先の大戦時に旧日本軍が建設した滑走路を使用している。
今回の撮影内容は遺骨収集団の宿泊施設の撮影だ。今まで収集団と言えば沖に停泊する船中での滞在で、港が無い硫黄島では天候が悪化して上陸が出来ないケースも多々あったらしい。収集団の人達にしてみれば島を目前に海が荒れ上陸出来ずの引き返し、さぞかし無念だったろう。その状況の打開策としての宿泊所建設らしい。

3日間滞在しその間に今なお手つかずの戦跡をまわってみた。最初に鉢伏山に登ったが、この島はアメリカ軍の海兵隊が星条旗を勝利の印として打ち立てた象徴的な山で、山頂にはその戦勝のモニュメントがアメリカ政府の手で建っている。
この山は昼夜を問わずのアメリカ軍の艦砲射撃で山の容貌が変わってしまったらしい。はるか遠くには円錐型をした南硫黄島が望める。
山を下り旧日本軍の司令部、宿舎、野戦病院等を訪れ最後に戦没者慰霊碑に花を手向けた。
その後アメリカ軍の海兵隊が上陸した海岸に出てみたが、今でもライフルの薬莢が至る所に散乱し、一歩ジャングルに踏み入ると、赤さびで被われた朽ちた戦車、大砲、またトーチカがうち捨てられている。

一番驚いたのは島内の至る所で火山性水蒸気が吹き出し、注意をして歩行しないと噴出口に足を取られてしまう。島の名前の由来にもなった硫黄の強い臭気も漂っている。

旧陸軍の施設はアメリカ軍の攻撃に備え大半が地下壕、人工洞窟の中にある。中に入ってみるとサウナにいるようで5分もいると汗がにじみ出てくる。このような劣悪な環境で、食料、武器、弾薬も尽き最後には玉砕して亡くなった多くの兵士達の事を思うといたたまれない気持ち、いや怒りすら感じた事を思い出す。特に野戦病院の劣悪な環境には言葉が出てこなかった。戦傷者達は医療手段も無いこの環境の中で何を思っていたことか。人間の尊厳を何と思っていたのだろう。同じ人間なのに、上官、下士官、兵士、何が違うのだろう。全くやるせなく、この怒りを何処にぶつければいいのだろうか。

当時の様子はC・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」で知ることが出来る。

今回の街歩きコラムはいささか趣が異になった内容になり違和感があるのは認めるが、終戦記念日に書いているこのコラムでは、何か一言云わないではいられなかった。誰に何を?

堀内 広治

(posted on 2018/8/23)

堀内広治

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