日本建築写真家協会

Japan Architectural Photographers Society

コラム
column

写真家 三輪晃久を語る 第二話 三輪晃士

オリンピックも終わり、私も日大芸術大学部に入学して渡辺先生のゼミに入り、昭和44年に卒業することとなり、父の仕事も安定して来はじめたころ、三菱地所の丸の内再開発が始まり、旧赤レンガの建物を解体して現在の様なオフィスビルへの変貌を目指して開発が進んで、毎日のように工事記録の撮影をしておりました。私も旧東9号館ビル(富士銀行本店)、現在の丸の内パークビル解体の記録撮影をやらされました。ネズミの糞にまみれながら、天井裏の梁や柱組の撮影を大成建設に入ったばかりの社員さんと一緒に朝から晩までやったものでした。外壁レンガの引き倒し作業には、鳶達が大成建設の揃いの法被で一斉に縄を引き、外壁を見事に倒した時は大変壮観なものでした。そうして丸の内の中通り開発や、旧マッカーサー通りの開発が10年位かけて終わり、最後に旧日劇の解体が始まり、有楽町マリオンの竣工で既に第1回再開発が終了しました。

一方、三輪晃久はその頃設計事務所等の仕事も多くなり、川澄先生とバッティングする機会が増え、犬猿の仲になった様です。今でも記憶に残る出来事は、大成建設さんの創価学会大石寺の撮影時に、川澄先生と三輪が顔を合わせるや否や互いに知らぬ顔をし合い、現場の所長が大変困っていた様子が今でも鮮明に思い出されます。私は父に「何故川澄先生と犬猿の仲になったのか?」と聞いたところ、不覚にも、富士銀行本店の撮影の際に、三菱地所さんより営業ロビーの人物入れのカットが必要とされ、その場におられた小柄な美女をモデルに2~3カット撮影したことが起因だそうです。その小柄な美女が川澄先生の奥様だったそうです。聞いてみれば二人とも何と大人気ないと一笑しました。その事以来、川澄先生の奥様は私のことを「三輪さんの僕ちゃん」と呼ぶようになり、設計者の前でもその呼び方なので閉口しました。

それから十数年たって、川澄先生の個展が三田であった折に、先生から「昔の話はもう忘れたので三輪さんに宜しく」と作品等を頂戴し、それを三輪に報告すると、満面の笑みで嬉しそうでした。翌日三輪は川澄先生に手紙を書き「カナダモントリオール万博や大阪万博の報告をした。」と言って居りました。その頃三輪は建築写真よりもライフワークの「われら地球人」の取材が多くなり、一年の半分は海外にロケで、私も共に出かける事が多くなりました。国内の仕事は所員達がやることが多くなりました。

次回に続く。

(posted on 2018/3/10)

三輪晃士

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