日本建築写真家協会

Japan Architectural Photographers Society

コラム
column

高井代表の記事がCAPA 2017年5月号に掲載されました

『CAPA 2017年5月号』株式会社 学研プラス刊 に高井潔代表の記事が掲載されました。
「名作誕生とその時代」

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生きる文化財としての輝き

高井潔『日本の倉』(伊藤ていじとの共著)1973年/淡交社

半世紀にわたり日本の古民家を撮り続ける高井潔。
その出発点は「倉」にあった。
若き建築写真家による大胆なカメラワークは、その妙味を余すことなく伝えている。

解説/鳥原学 
構成/井本千佳(RacingTwins&Co.)

建築写真は語る

全国各地で古民家のリノベーション事業が盛んだ。カフェやミュージアムまたは宿泊施設などに改装され、地域の暮らしの歴史を伝える観光資源として活用されている。
 古民家を「木造建築で、しかも江戸時代から明治にかけての商家や民家」と定義するのは、建築写真家の高井潔だ。約半世紀にわたり撮影を続け、24冊もの著作などを通じて古民家の魅力と保存の意義を伝えてきた。
 高井の写真の魅力は、まず自然光によるナチュラルなライティングにある。柔らかな光の中で建築のフォルムと構造、意匠のディテール、素材の質感などの描写が相まって、大きな全体性が示されている。これは住む人の感覚の再現であり、建築の様式や時代的な背景について充分な理解がなければ生まれて来ない表現だ。
 その高井にとって記念碑的著作といえるのが、民家研究の第一人者である伊藤ていじとの共著として1973年に出版された『日本の倉』だ。約250ページの大判写真集には、さまざまな物を保管したり、醸造などの生産施設として使われてきた多様な倉のかたちが収められている。「なまこ壁」のクローズアップ写真が全面に用いられた表紙を開けると、8点のカラー写真が置かれている。次いで伊藤の丹念な論考があり、それに続くモノクロ写真が圧巻。木、石、土という建築素材によって3つの章に分けられ、それぞれの質感や造形性がときに誇張といえるほどの迫力で展開されるのだ。高井の大胆な切り取りと、グラフィック・デザイナー田中一光によるレイアウトが相まって、倉そのものが命を持つ存在のようにさえ思えてくる。
 伊藤の「まえがき」を読むと、本書はこの命を守るために生まれたとわかる。ここで撮影された倉は、もう建てられることはないと伊藤は断言しているからだ。だが、これらに実用性を超える美が見出されれば、私たちはきっと「愛惜をもってその倉の消滅を阻もうとするだろう」。さらに倉の文化史を理解するとき、日本列島に住んできた人々の連帯感や歴史の連続性を共有できるはずだと。生きた文化財としての倉を、長く受け継いでいくことへの強い希望が託されている。
 伊藤はまた、高井の任務を「写真を通じて倉の形態と環境をとらえること」とし、その過酷ともいえる撮影を「若者の特権によって果たしてくれた」と感謝の意を述べている。
 当時高井は35歳、本格的に古民家を撮り始めて4年目の彼は、この大仕事によって写真家として飛躍を遂げたのだった。

古民家との出会い

『日本の倉』の撮影に高井が費やした期間は1972年6月からの約7か月間。ロケ地は、北海道から鹿児島の奄美大島にまで及んでいる。それも会社に勤務しつつ撮り上げたのだから、驚くべき情熱といえる。
 高井は日本大学芸術学部写真学科を卒業した1962年に、ゼネコン大手の大成建設に入社。広報部のカメラマンとして、1998年に定年退職するまで勤め上げた。その間、平日は自社の手掛けた現代的な建築を撮影しつつ、束の間の休日や休暇に古民家に取り組んだ。若いころは勤務を終えた週末に夜行列車で現地に向かい、わずかな滞在時間で対象を撮ると、月曜の朝にそのまま出社することもあった。
 遡れば、古民家についての原体験は幼少期にある。高井は1938年に東京市芝区田村町(現・西新橋)で運送業を営む家庭に生まれた。3歳の時に太平洋戦争が始まり、戦局が不利になると疎開を余儀なくされ、茨城県下妻の農家に移った。そこで過ごした期間は短いが、茅葺きの木造民家は、都会育ちの高井に忘れられぬ印象を残した。
 やがて7歳の夏に終戦を迎え、疎開先から東京に戻ると一帯はすっかり焼失していた。なんとか建てたバラックの2階からは、はるか向こうが見渡せたという。そんな焼け野原にもすぐに人が集まり、闇市や泥棒市が立って、復興が始まっていく。
 高井少年もそんな活気の中で元気に育ち、地元の中学と高校を経て、日大の写真学科に進んでいる。
 しかし写真家志望だったわけではない。希望校に落ちた後、なんとか最後の受験に間に合ったのが、日大の写真学科だけだったのだ。
 さて、当時の日大では、学生はみな専門の部会に所属しなければならなかった。高井は報道部会に所属したが、確たる目標があったわけではなかった。ときに、華やかな広告写真に惹かれたり、記録映画やニュース映像の影響で南極探検隊に同行することや谷川岳の遭難を空撮することを夢見たりした。
 建築写真に惹かれたきっかけは、新橋の古書店で二川幸夫の写真と伊藤ていじの解説による『日本の古民家』を手にしたことだ。「本書を眺めては閉じ、眺めては閉じするうちに報道写真への夢は消えていった」と当時を振り返っている。
 この『日本の古民家』を撮影した二川幸夫は高井より6歳年長。早稲田大学在学中に日本文化史に興味を持ち、飛騨・高山を訪ね、それを契機に、民衆の働きと知恵が結晶した偉大な遺産として民家の克明な撮影を始めた。本書が出版されたときはまだ20代半ばだった。
「二川の写真のすごさはわからなかったが、その気迫のこもった力強さに圧倒された。伊藤の文は民家の地方による特色その時代的変化を理解させてくれた」
 本書を手にしてそう思った高井は、友人たちと白川郷の民家を訪ねた。だが、それは「観光写真ともつかぬもの」で終わった。その後、近代建築写真の第一人者で母校の教授である渡辺義雄の講義を聞くうちに、この道を考えるようになった。

ライバルとともに

 当時の写真学生で建築写真を志す者は少なく、高井の同期では増田彰久だけだった。増田も元は報道写真家志望だったが、卒業制作で禅寺を取材して寺社建築に興味を持った。そこで渡辺に相談をしたところ建設会社を勧められ、大成建設への就職をいち早く決めた。それを知った高井もまた知人の紹介を得て受験した。そして1961年4月、大成建設の広報課に初の社員カメラマンが二人誕生したのだった。
 この採用の背景には高度経済成長期における建設ラッシュがあった。ことに同社は3年後の東京オリンピックを控えて膨大な受注を抱え、竣工写真の需要増が見込まれていた。さらに経営の近代化にともない広報活動にも力を入れ始め、同年には季刊PR誌『TQ』(Taisei Quarterly)を発刊する予定となっていた。
 とはいえ、新入社員がすぐに役立つわけがない。なにせ二人は会社が用意した4×5判カメラの使い方さえわからなかったのだ。大学の授業では担当講師の解説を見ただけだったから無理はない。困った高井は渡辺を頼り、若い講師からその手ほどきを受けている。
 そんな新人も、入社から半年ほどすると全国の現場を駆け回るようになった。大型カメラにレンズ3本と三脚、カラーとモノクロの両フィルム、そして着替え一式を持って列車か長距離バスかで現地に向かう。現場ではすべて一人で撮影を済ませ、すぐ東京に戻って現像作業をこなす。しかも施主の都合で、日曜出勤は当たり前という多忙な毎日だった。
 この厳しい実践は技術を向上させた。東京国立競技場のスタンドを撮った1枚が写真雑誌で評価されると自信がついた。また1966年に『TQ』誌の制作に広告代理店のライトパブリシティが加わり、第一線のアートディレクターからさらに高いクオリティを求められ、それに必死で応えた。日々は充実していた。しかし会社の仕事だけでは、どこか満たされない。
 高井は建築写真には二通りあると考える。それは建物の完成時に記録・記念として撮る竣工写真と、写真家の主観で表現する写真だ。後者で認められてこそ写真家だという気持ちが強まっていく。
 このころ高井は出張の途中、心掛けて古い民家を訪ね歩いた。そこには近代建築にはない暮らしのぬくもりがある。家に戻り再び『日本の民家』を開くと、改めて自分でも撮りたいという気持ちになっていた。
 さらに同期の増田が、1968年から日本の西洋館の撮影に取り掛かっていたことも、心に火をつけた。高井も古民家の撮影を始めると、1971年に個展「日本の民家」を開催した。
 この記念すべき初個展にあたり、高井は二川と伊藤に手紙を出している。そして展示を見に来た伊藤から『日本の倉』の撮影を依頼されたのだった。写真家を目指すものとしてこれほど嬉しい評価はない。しかも、この仕事を通じて、民家の脇役と考えていた倉の重要性を再発見したことで、建築写真家としての視野を大きく広げることができた。
 以降、高井は古民家撮影の第一人者として活躍し、増田と競い合うように作品を発表していく。そんな二人の姿をいぶかしむ声も社内にはあったが、それが仕事に生きてくると、次第に誰もが納得していったのだった。
 やがて定年の年、会社の後輩が初めて二人展を企画してくれた。そのとき高井は、朝日新聞の取材に「一人だったら、もっと前に(会社を)辞めていた」と語った。
 職業人と作家の両立を果たし、充実した日々を送れる人物は希だ。高井はその数少ない一人である。

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佐藤家の座敷倉の内部
山形県山形市
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奥村家の藍倉
徳島県板野郡藍住町
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伏見の酒蔵
京都府伏見区

高井潔(たかい・きよし)

1938年、東京都生まれ。1961年、日本大学芸術学部写真学科を卒業した後、大成建設に入社。広報部で建築写真を担いながら、自身のライフワークとして古建築を撮影。著書・写真集は『日本の民家』『建築写真の世界』『日本の屋根』『建築写真術』『蔵』『暖簾』『日本民家紀行』『民家(上)/(下)』『日本の民家美と伝統東日本編/西日本編』など多数。日本写真家協会新人賞、同年度賞を受賞。

鳥原 学(とりはら・まなぶ)

1965 年大阪生まれ。近畿大学卒業。95 年ころから写真雑誌・美術雑誌などへの寄稿活動を始める。現在、日本写真芸術専門学校で現代写真論などの講師を務める。著書に『戦後写真クロニクル時代をつくった写真、時代がつくった写真』『日本写真史(上・下)』『写真のなかの「わたし」』がある。

(校正:伊藤まどか)

(posted on 2017/7/15)

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